*写真は再びニュージーランドに
19日(日)曇り。今日は新潟ふるさと村近くの河川敷公園を歩いてきた。偶然ふるさと村の一角で新潟総踊りという県内各地から集まったグループによる踊りが披露され、かなりの混雑だった。不景気の中、どこでも人を集めるのに必死だ。
明治維新により創設された文部省は文部大輔・江藤新平、文部卿・大木喬任を中心に準備が進んだ。72年に発布された学制布告書には第一に「学問は身を立るの財本」、第二に「教育の機会均等,四民平等」、第三に「近代科学を中心とした学問」実利的学問観である。
第一などは明らかに福沢諭吉の「学問のすすめ」にある「人間学問をすることによって立身出世の道が開ける」との主張を取り入れたものだ。全国に8つの大学校、256の中学校、5万3760の小学校設立の計画が立てられた。行政と教育を分ける発想は当初から弱かった。
当初の文部省は江藤や大木は洋学派であり、教育の分権化を模索した時もあったようだ。特に79年(明治12年)の教育令公布などに際しては自由民権運動の指導者植木枝盛などの自由教育論によって教育の統制や思想や価値観の強制を牽制する動きさえあった。
つまり政府内部に復古派と開明派の激しい対立があった。結局は復古派が勝利する。その巨頭は明治天皇の側近元田永ざねである。彼は儒教主義に基づく道徳教育を学校教育の中心にすべきだと主張し、「教学聖旨」(教育勅語の基になる)を起草する。
現在の学校制度の基礎を築いた人物として高く評価されているのは初代文部大臣・森有礼であるが、私は評価しない。彼は「諸学校を維持するもの畢竟国家のためなり」でわかるように、国家主義教育体制の確立に尽力したということである。「愛国心の培養」も。
彼は同時に開明派であったから、学問の自由には理解を示したものの、学問の成果が初等教育に反映されないという今の教育問題につながる、学校教育の2重構造という枠組みをつくってしまった。彼が教師に求めたものは天皇制国家を支える臣民の育成に全力を捧げる献身没我であった。その基本が先の大戦の悲劇を招いたと考える方が妥当だ。
師範学校に兵式体操を導入したのも彼で、寄宿舎の生活から服装に至るまで徹底した軍隊化が図られ、強い規制が加えられた。全国の学校に天皇・皇后の写真「御真影」を下賜(建前は請願とした)、天長節などの祝日に学校儀式(拝礼や君が代斉唱)を奨励したのも彼である。自発的であることが望ましいなどとうそぶいているが、自発的にやるはずがない。その彼が国粋主義者に暗殺されるわけだから、皮肉というしかない。
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