20日(月)曇り時々雨。尖閣諸島をめぐるトラブルが波紋を広げている。中国側が異常に感情的だ。中国某社の1万人の社員旅行がドタキャンになったり、中国要人の来日が延期になったりしている。事態はさらにエスカレートしそうな気配である。
日本、中国、台湾がお互いに固有の領土だと主張している。戦争によって奪った領土は返還が当然だというのは国際的に認知されたことだから、わかりやすいが、尖閣諸島はそうではないから難しい。歴史的にどうなのかをWikipediaで調べてみた。
中国では尖閣諸島を魚釣島とよぶ。1534に中国人の冊封使の報告書に魚釣島を「琉球に属する者なり」とあり、当時独立国であった琉球王国の領土と認めていた。1562年、1686年の冊封使の報告書にも同様の記述がみられる。日本側の記録ではどうなのか。
1785年に林子平が著した「三国通覧図説」には逆に釣魚台列島が台湾と同じ色で彩色されているという。1879年、琉球処分によって沖縄県に編入された。その後、沖縄県や日本政府による調査がなされ、無人島である、どこも領有権を主張していないと確認。
1890年、沖縄県知事が国標を建てることを政府に要請、政府はその方向に動きながら、清国との関係を考え、慎重だった。そして1895年外務大臣陸奥宗光は国標を建てることに同意。(下関条約締結前)尖閣諸島の沖縄県への編入を閣議決定。周辺国に伝えられず。
1895年、下関条約で台湾及び付属する島々を日本に割譲。1946年、ポツダム宣言受諾により尖閣諸島を含む南西諸島の施政権が日本から連合国に移された。この時点で中国も台湾も抗議はなかったばかりか、1953年中国共産党の機関紙「人民日報」の記事は興味深い。
「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事である。その中で尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介している。つまり日本領と認めていたということだ。58年発行の地図にも日本領と扱った。
台湾も1965年、中華民国国防研究院発行の地図や68年台湾最大紙「聯合報」も尖閣諸島を日本領として取り扱っている。ではいつから中国や台湾は自国の領土と主張し始めたのか。68年10月に日本、台湾、韓国の海洋専門家が海底資源の埋蔵の可能性に触れた。
埋蔵資源の存在、漁業専管地域の問題が領有権の問題に結び付いた。こうして見てくると、少なくとも台湾、中国側の主張には無理がある。日本側としてもその都度、交渉のテーブルに載せずに避けてきたことが問題を複雑にしてしてしまったと言えそうだ。
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