1日(水)早師走を迎えた。例年なら今頃はどこかの国へ脱出しているのだが、今年はベトナムがドタキャンになり出鼻をくじかれた。7年ぶりに日本で正月を迎えることになりそうである。テニスに登山、それに料理のレパートリーを広げる優雅な毎日である。
毎日スーパーや八百屋に買い出しに出かけるが、野菜が一向に安くならない。比較的安定しているジャガイモ、玉ねぎ、人参、カボチャなどをメーンにした煮込み料理に凝っている。最近ではカボチャのカレー煮、ミートボールシチュー、ポークビーンズなど。
私の18番は水餃子と〆サバなのだが、今年は鯖の水揚げが悪いらしく、たまに入荷したと思えば高い。逆に鰯は油がのって値段も手頃。時々ヌタにしたり、焼いたりして楽しんでいる。在職中はここまでできなかったなあと思いながら昼過ぎには献立を考えている。
北朝鮮が地上の楽園などでなかったことは帰還事業が始まって3年で知れ渡ることになる。その証拠に最も多かった2年目の60年が49036人、61年が22801に対し、63年には3497年と急減し、その後は減る一方。渡ったら最後、当初の約束と違い帰国は認められず。
帰国した人々が日本の親族に要求してくるものにダンプカーやトラックなどが多かったのは、自分が使うためではなく、労働党幹部に賄賂として贈り、条件の良い家や職場をあっせんしてもらうために必要としたのだというのだ。しかしこれは序の口だった。
中には1000万~2000万円の送金を頼む人たちもいた。帰国者たちの消息を消すことによって不安を煽る。日本にいる親族は唯一の窓口である総連に駆け込む。曹浩平・小池秀子(日本人妻)と子ども3人も67年に最後の手紙を家族に送ったまま行方不明。
曹さんの妹幸さんは94年になって北の蛮行を告発。これが人質をとられている家族にとって危険であるかを知った上で。「父は何度も何度も兄と家族の消息を総連に問いただしました。返ってくる答えは『知らない』。父は訪問の手続きを申請、寄付もし続けました」
結果は不許可。やらずぶったくりの詐欺に等しい。81年に続いて83年に再申請をした。再び寄付もした。今度は許可が下りた。喜んでいたら出発の1週間前になって突如不許可。理由は知らされず。父は86年に失意のままこの世を去った。4年後、母も逝った。
みんな歳をとられて亡くなられた方が多くなったが、在新潟の朝鮮人たちも同じ体験をお持ちの方が何人もおられる。彼らは酒が入ると最後は総連や北の評価をめぐって、必ず激論になった。泣きながら告発する人、まだ生きているかもしれない娘を思って耐える人。
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