1日(水)今週末から旅に出るので書き溜めている。北朝鮮問題もなかなか終わらない。ここで私の知人で昔の研究仲間でもあった張明秀さんについて詳しく紹介しておきたい。今から30数年前にコリアン研究会で出会い、私も事務局をお手伝いすることになった。
コリアン研究会は氏が中心になって立ち上げた会で、新潟における朝鮮人の強制連行や虐殺・虐待事件を調べるのが目的だった。具体的には中魚沼の中津川事件、佐渡金山への強制連行、新潟港での強制労働などであった。実地調査や学習会を組織したりもした。
張さんは1939年、5歳の時に母とともに来日。(連行ではない)10代から総連の運動に関わり、88年に脱退するまで30数年にわたって常任活動家として総連中央や新潟県本部(副委員長)で熱心に活動した。奥さんは新潟駅前で焼き肉店を経営し私も時々通った。
88年脱退後は「共和国帰国者問題協議会」を立ち上げるなどしたため、脅迫や嫌がらせにあい、命まで危険を感じて離婚して家族との連絡を断ち、アパートで一人住まいをされて活動している。生活費は著作活動や講演等で収入を得ているとのお話だった。
著書「裏切られた楽土」には、「総連の活動家として、帰国事業こそ、民族差別と失業に喘ぐ在日同胞に対する共和国政府の救いの手であると確信して帰国事業に熱心に取り組んだ」だからこそご両親と兄弟(前に姉と書いたのは誤)妻の家族も北に送った。
張さんは在日同胞の権利擁護や拡張が活動に入る原点だったのに、総連中央は政治思想運動に傾き過ぎているとの批判は常にあったという。自分の家族を「祖国」に帰したのが62年、その直後から、異変を感じ始めたが、それを正すために総連に残り続けた。
帰国者は帰国を許されず、彼らを人質として金品を巻き上げるための祖国訪問団が毎年のように組織された。(私は全く人道的な事業だと思い込んできた)80年、氏は第80次祖国訪問団の副団長として渡北し、約20年ぶりに母や(父は帰国後他界)兄弟と再会する。
総連内部で批判を繰り返し、ハン・ドクス議長の責任追及の上申書を提出したりしていたために、足留め(そのまま帰国を認めない=幹部クラスでも何人もの例がある)になる恐れが強かったが、母・兄弟に会いたい気持ちの方が強かったし、覚悟の上だったと。
一カ月の訪問団なのに、親戚の家に泊れるのは3泊4日と決められ、しかも監視人(案内人)付きで兄の職業も聞き出せなかった。母は「なぜお前はあの時船のタラップで、わしの足をつかんで引きとめようとしなかったのか」と泣いた。帰国の一カ月後母は死んだ。
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